一人でいることの大切さ

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今日では、自分一人で過ごす時間というものが、どんどん少なくなってきているようにも思われます。最近は、人とのコミュニケーションのあり方がどんどん変わってきています。携帯電話、メールやインターネットなどを使って、いつでも、どこにいても他者とつながることが可能となりました。直接人と会わないでできるコミュニケーションは手軽で、便利です。しかし、便利で簡単だからこそ、逆に相手とマメに連絡をし合わなければならないという面もあります。このような新しいコミュニケーション・ツールの登場は、私たちの隠れ場所や逃げ場を少なくしているという面ももたらしています。いつでも、どこにいても他者とつながることができる状況は、時と場所を選ばずに、他者が自分につながってくる状況でもあります。電話やメールはこちらの事情に関係なく割り込んできますので、大事な会議や授業時間には携帯電話の電源を切るなどして、それらを自分でシャットアウトする意識を持たないといけない時代になりました。また、対面的なコミュニケーションでは、他者から受け取る情報が、言語的なものと非言語的なものとどちらも得られますが、インターネットやメールなどでは文字情報が中心となるため言語的な情報しか得られません。コミュニケーションにおける情報量はかなり狭められます。したがって、直接会って話す場合にはすぐに分かる相手の気持ちも、文字だけでは分かりかねるので、相手の気持ちを推測するために多大なエネルギーを使うことになります。そうしたコミュニケーションでは、私たちのこころのエネルギーはともすると自分自身の心よりも他者の方へと傾きがちとなるのではないでしょうか。

現代では、人間の生き方が外向的な方向に傾きやすいことが指摘されていますが、最近ではその傾向が一層強まっているように思います。ここで言う「外向的な生き方」とは、人のこころのエネルギーが自分自身の内側よりも外側の刺激や外の世界で起こる事柄の方に向かいやすいあり方を意味します。ちなみに、その対極と考えられる「内向的な生き方」では、人のこころのエネルギーが外側の世界よりも自分の心の内面に向きやすくなります。

人間のこころのエネルギーには限りがありますから、こころのエネルギーが外の世界の方にばかり使われていると、自分の内側に向けられるエネルギーは少なくなってしまいます。自分の内面との関わりにエネルギーをあまり使わないでいると、いざ心の中に目を向け、自分の心の状態をとらえようとしてもうまくいかなくなることがあります。これは、機械の場合に例えると、いつも使われている部分は働きがスムーズであるけれども、使われない部分はサビついてきて働きが鈍くなってしまう、そんな状態に近いといえます。つまり、自分のこころの内側とのコミュニケーションがうまくいかない状態です。そのような状態になると、「自分がどういう気持ちなのか」「自分はどうしたいのか」など、自分の気持ちが自分でも分からなくなってしまいます。私たちは、緊張する対人場面に置かれた時などに、一時的に自分の気持ちが分からなくなるような状態を経験することがありますね。これは、それほど問題であるとは思いません。しかし、自分の心の内側とのコミュニケーションがうまくいかない状態が続いた結果、日常生活において常に自分の心の状態(自分の気持ちや考え)がはっきりしないとか、分からなくなっている人もあります。そうなってくると、他の人の意見を聞いても「それも一理あるな」とか、「あぁ、こっちの人の意見も正しそうだな」とか、「この意見もいいな」と思ったりして、異なる意見に出会うたびに、自分の気持ちも揺れ動いてしまうようなことも起こります。そして、「肝心のあなた自身はどう思っているの」と聞かれると、自分でも分からないということになってしまいます。自分はどんな意見を持っているのか、どんな気持ちなのかを、感じられないために答えることができないのです。そうしたことが続いていくと、次第に自分自身のあり方に自信が持てなくなったり、虚しい気持ちに襲われたり、無気力な状態に陥ったりします。家族や親しい友人と一緒に過ごしているのに、孤独感を経験する人もいます。これらのケースでは、その人が自分のこころの内部とのつながりを欠いていることが問題となっているのです。他者の気持ちを察することに一生懸命になり過ぎて、自分の気持ちを見失ってしまうようなことも起こります。自分の気持ちが分からないという状況に遭遇したくないので、ますます外の世界の刺激を求め続け、自分の心の世界に触れないようにしてしまう人もいるようです。

しかし、人は、人生を送っていく過程で、例えば進路や自分の生き方を考えなければならないような節目にさしかかった時に、自分の心に向き合わなければならなくなります。その時、既にサビついてしまっている自分の心を動かしていくには大変なエネルギーと時間を要します。自分1人になる時間が少なくなってきている今日、私たちは、こころの内面との関わりをサビつかせないために、自分1人で過ごす時間を作ることが必要だと思います。日頃から自分1人になる時間を持って、自分のこころの世界、内面に目を向け、自分自身と対話をすることは、心の中のサビを予防することにつながります。自分の感情や身体的な反応など、普段はあまり注意を向けないところに目を向けたり、自分の生き方についてゆっくり考えてみることもできます。私たちは、自分を見失わないよう、自分自身とも上手に付き合っていくことが大切ではないかと思います。

(一粒の麦 No.35 2007年3月)

この記事はユングの『タイプ論』(みすず書房)に書かれている心理的類型、つまり「内向型」と「外向型」の考え方を背景にして書かれています。ユングがこの大著を書くに至った動機は、それに先立って書かれた『無意識の心理』(人文書院)を読むと理解されます。ユングは、フロイトとアドラーが同じ神経症について述べるにせよそれがまったく異なる内容になっていることに着目し、その理由を二人が真逆の異なるタイプであることに求めたのです。ユングは次のように述べています。

「このジレンマを見て私はこう考えた。人間には相異なる二つのタイプがあって、一方はむしろ客体に興味を持ち、他方はむしろ自己自身(主体)に興味をもつのではあるまいか。その結果、一方が見るものと他方が見るものとは二つの違ったものになってしまい、そんなわけでそれぞれが全く違った結論に到達してしまうのではあるまいか。(中略)フロイト対アドラーの対立は、もともと多くの可能なる対応タイプのひとつのケースにすぎず、ひとつの模範例にすぎないのである」

ユングに言わせると、フロイトとその理論は外向型として理解され、アドラーとその理論は内向型として理解されます。二人とも主体を客体との関係の中で考えているのですが、アドラーではアクセントが主体にあって、あらゆる客体を抑えてその上に立とうとする権力への意志が重視されます。一方フロイトではアクセントが客体にあって、主体の快楽欲求に対して促進的に作用したり妨害的に作用したりする客体の特性が重視されます。このように、主体の内的な動機(劣等感の裏返しとしての権力への意志)が強調されるか、客体との性愛的な関係が強調されるか、その違いは心理的なタイプの違いによって説明されるのです。

(追記:2019年6月)

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2019年04月20日