こころの死と再生

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私たちの日常生活では、死の話題を口にすることはタブーにされがちです。例えば、老い先が短いと感じた人が、周囲の人たちに「私が死んだら…」などと言おうものなら、聞いている人たちは皆慌てて「そんなことはないですよ」「縁起でもない」とその言葉を打ち消します。死にまつわることは、恐れであり、あるいは縁起が悪いものであり、忌み嫌われがちなものです。しかし、私たちが人生を歩む過程で、肉体的な死ではなく、こころの次元での死を経験することがあります。それは、私たちのこころが成長していく過程や、パーソナリティが変化していく過程で起こる象徴的な死です。これは、肉体的な死が持つ意味合いとはおもむきがやや異なります。カウンセリングの過程で、相談にこられている人のパーソナリティが急激に変容していく際に、心理的・象徴的な次元で死の体験が生じることがしばしばあります。例えば、カウンセリングの中で、夢や絵画などのイメージ表現を行っている場合に、それらのイメージの中に死のテーマや、死んで新しく生まれ変わるという再生のテーマが登場します。イメージの世界における象徴的な死と再生には、「次元が切り替わる」「ある世界から別の世界へと移行していく」というような意味合いがあります。

また、カウンセリング場面に限らず、日常生活の経験においても、私たちのこころが成長していく際に、象徴的な死と再生の過程が展開しています。それは、それまでの古い自分が死んで、新しい自分が生まれてくるという体験です。日常生活において、そのような体験は、本人の自覚なしにこころの深層において自然に生じていることが多いようです。このような象徴的体験は、私たちの生活の中で儀式として見られることがあります。例えば結婚式です。日本の文化では、白装束は死に装束を意味したりしますが、結婚式で花嫁さんが着る衣裳も基本は白です。この白無垢には、象徴的な死の意味あいが含まれており、白無垢は死に装束であるとも考えられます。結婚式とは、これまでの娘としての自分がそこで死んで、妻としての新しい自分に生まれ変わるための儀礼の場でもあるわけです。

思春期の子どもは難しい年頃などとも言われ、急に親に反発したり攻撃的になったりして、それ以前の子ども時代とは違う局面が出てきたりします。いわゆる反抗期と呼ばれる現象です。第二次反抗期は、思春期に見られる現象ですが、このような経験を通過して子どもは成長していきます。子どもが心理的に成長し親から自立していく過程では、心理的な次元での「母親殺し」「父親殺し」とでも言える死と再生の体験をしていくことになります。そのようにして子ども時代の親子関係を一度壊し、新しい親子関係が築かれていきます。しかし、このようなこころの作業がうまくなされずに、つまずいてしまうケースもあります。

私が出会ったある中学生の女の子は、幼少期からずっと大人びた自分を無理して作り、子どもらしい生き方をほとんど経験してきませんでした。母親は、ある事情から彼女を厳しくしつけ、スキンシップもほとんどありませんでした。彼女は母親に甘えることも駄々をこねることもなく、聞き分けの良い子として育ち、同級生らを幼稚と見下して遊ぶこともしませんでした。そんな彼女は、中学になると過敏性腸症候群という病気にかかります。この症状は、彼女が子ども時代に「子どもらしくあること」を十分に体験してこなかったため、大人になっていくためのこころの準備が始まる思春期にさしかかり、それまでの無理のある生き方が適応問題として表面化したものと考えられました。彼女はカウンセリングを続ける過程で、大人びた仮面を捨て、幼児期に体験できなかった「子どもらしくあること」を母親との間でやり直していきました。彼女は、一時、幼児期に退行し、まるで幼児のように甘え、母親もそれに十分応えました。すると、自然に次の段階が現れました。べったり母親に甘えていたところから一転し、母親に対して自己主張したり不満をぶつけ反抗したりする現象が起こってきます。「母親殺し」とも言える反抗期を経験することを通じて、彼女はそれ以前とは次元の異なる新たな「自分のあり方」「母親との関係」を獲得していきました。また、過敏性腸症候群も改善されていきました。

子どもが心理的・象徴的な次元で「母親殺し」「父親殺し」を体験し自立的な自己を形成していく過程では、親は上手に子どもに殺され、それまでの古い親子関係のあり方を断念して、新しい親子関係に移り変わっていくという体験を引き受けなければなりません。子どもが大人になろうとしているのに、いつまでも幼児に対するような関わりを続けて、子どもの自立を阻むというのも困りものです。子どもがいわゆる親離れの時期を迎えたならば、親の方もそれを受け止め、子離れをしていく準備をしていくことが大切なのかもしれません。

昔の日本では、人間のこころの成長過程に伴う死と再生の内的体験が一定の儀式として形作られ、みなが一律に経験する時代がありました。元服、成人式、結婚式などは、人のこころの死と再生に深く関わっていました。しかし、現代では、そのような儀式が心理的に深い意味合いを失い、形骸化してきていると言われています。また、内的・心理的な次元で行われるはずの象徴的な死と再生の体験がこころの次元でおさまらずに、現実の肉体的な死に結びついてしまうという問題が今日では増えてきているとも言われます。現代は、こころの死と再生の体験を各人で取り組まなければいけない難しい時代になっているのかもしれません。

(一粒の麦 No.37 2008年3月)

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2019年04月18日